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踏みにじられた「ウィーンの名花」-----デラ・カーザ降板劇
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リーザ・デラ・カーザ |
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不可解な主役の変更
1960年7月26日、ザルツブルグ祝祭大劇場のこけら落とし公演において、スイス生まれの名ソプラノ、リーザ・デラ・カーザ(1919-)は「バラの騎士」の元帥夫人マルシャリン役を歌い、満場の聴衆を魅了していた。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のウィーン・フィル、セーナ・ユリナッチのオクタヴィアン、ヒルデ・ギューデンのゾフィーという、伝説的な共演者達であった。公演は歴史的と言える成功をおさめた。そして、この後、本来ならば、デラ・カーザを主役としたオペラ映画「バラの騎士」が撮影される運びだった。彼女にとっては、キャリアのピークとなる、輝かしい夏となる筈だったのだ。ところが、実際の映画の撮影現場にいたのはデラ・カーザではなく、ライヴァル、エリーザベト・シュヴァルツコップだった。完成した映画は公開当初から最高の評価を受け、デラ・カーザの公演での大成功にも関わらず、マルシャリン=シュヴァルツコップのイメージだけが後世に残ることとなった。
映画において、シュヴァルツコップの良くコントロールされた歌唱、毅然とした佇まいが、元帥夫人の一つの優れたモデルを提供していたのは確かである。しかし、当初の予定通り、デラ・カーザが映画に出演していたら、映像の魅力は、より大きなものとなっていたかもしれない。というのも、デラ・カーザはハリウッド黄金期の女優達を彷彿とさせる、優艶なる美貌の持ち主だったからだ。人はデラ・カーザを「アラベリッシマ=最美のアラベラ」「ウィーンの名花」と賞賛していた。彼女の舞台姿を評して、「ルードヴィヒ一世のギャラリーにある素晴らしく美しい肖像画から抜け出て来たような」と讃嘆したのは、名バリトンのハンス・ホッターだった("Memoirs", Hans Hotter, p126)。
「デラ・カーザは新しいアラベラになるぞ」(リヒャルト・シュトラウス, 1947年)
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| バイエルン国立歌劇場での「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」を舞うデラ・カーザ。1961年のカール・ベーム指揮の公演はセンセーショナルな成功を収めた。 |
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しかし、デラ・カーザは、単に美貌で売っていた歌手だったわけではない。彼女はオペラ史上でも稀に見る万能ソプラノだったのだ。なにしろ、彼女は「バラの騎士」において、メゾのアンニーナとオクタヴィアン、ソプラノのゾフィーとマルシャリンという、音域も性格も異なる4つの女声役全てで成功している。しかも、彼女は、本来ドラマティックソプラノの領分であるクリソテミスやサロメを歌ってセンセーショナルな成功を収め、パミーナ、フィオルディリージ、伯爵夫人などのモーツアルトのリリックな役柄では当代随一の評価を得ていたし、ミミ、トスカなどのイタリア系の役柄でも高く評価された。そしてデビュー当時はコロラトゥーラの夜の女王まで手がけていたのである。ここまで来ると一種の異才というべきだろう。
フリッツ・ライナーは、ある時、「リーザ、私が歌手の連中を好んでいないのは知っているな。でも君は歌手じゃないね。音楽家だな。」と言ったそうである。この発言は、二つの観点から解釈することができる。まず、純粋な歌唱技術という観点から見ると、デラ・カーザは100%完璧なものを持っていたわけではなかった。もちろん、第一級と言っていい歌唱能力ではあったが、弱音になると、中低声部の音程が若干フラットになることがあった。銀色の美声の持ち主ではあったものの、決して声楽技術を売りにする「歌手」ではなかったと言える。第二に、彼女の最大の特質は、音楽性、特にその歌の「真正さ」にあった。表情が硬い、と指摘されることがあったが、一方で何を歌っても、控えめな美しさ、清純さ、若々しい息吹を感じさせた。この点で、彼女はマリア・チェボターリ、マリア・ライニング、グンドゥラ・ヤノヴィッツの系列に属する、正統的シュトラウス・プリマだったと言える。
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| デラ・カーザのアラベラと、フィッシャー・ディスカウのマンドリカは、黄金の組み合わせだった。 |
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高貴な美貌はもとより、その若々しく上品な歌声は、シュトラウスのオペラ「アラベラ」の世界に完璧にマッチしていた。結婚を夢見る令嬢の心の揺れ動きを、デラ・カーザほどさりげなく、そして見事に歌い、演じた歌手はいない。彼女のアラベラは伝説的で、いまだに世界中のどこかで誰かがこの役を歌うたびに、「デラ・カーザ」の名が比較にあげられるほどである。現在、4種類の公式録音が手に入る上、全曲のライヴ映像もドイツのテレビ局に残っている。特に、最近オルフェオから発売された「アラベラ」のライヴ録音は瞠目すべき演奏で、そこでは彼女の最高のアラベラを聴くことができる。もちろん、名盤として知られるショルティとの1957年のデッカ録音では、ジョン・カルショーによる見事な録音と、瑞々しいデラ・カーザの美声が満喫できるのだが、一方で彼女の表現はややクールに過ぎ、ショルティの指揮も力づくで味わいに欠けているのは否めない。1963年のカイルベルトとのDG録音では、デラ・カーザの表現ははるかに深みを増している反面、声は重くなり、そのコントロールは完璧ではなくなっている。その点、1958年のオルフェオ録音は、声、表現、カイルベルトの指揮VPOの豊麗な伴奏ともに、ほぼ理想的な状態にある。
完璧なマルシャリン
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1960年の「バラの騎士」ザルツブルグ公演の美しい舞台写真。マルシャリンのデラ・カーザ(左)とオクタヴィアンのユリナッチ(右)。 |
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冒頭にあげた公演、1960年に行われた「バラの騎士」プレミエの録音が、最近になってDGから発売になった。モノラルの放送録音由来というハンディをいれても、演奏内容でシュヴァルツコップとカラヤンが製作した著名なEMI盤を凌駕する、という意見が多い(英グラモフォン誌のAlan Blythもこの意見をとっている)。実際、カラヤンの流麗な指揮は見事なもので、EMIのスタジオ録音よりも音楽が自然に流れている。ゾフィーを歌ったギューデンだけはやや不調だが、他の歌手は素晴らしい出来だ。特に、デラ・カーザに関しては、レコードで聴くことのできるマルシャリンの中でも最上のものに属する。入念に準備されたらしく、低音から高音までムラなく美しい声で、非の打ち所の無い歌唱を聴くことができる。最後の三重唱では、遅めのカラヤンの指揮によりそい、クリスタルガラスのように輝くトーンと、見事なヴォイス・コントロールを聴かせている。そして、少しもわざとらしさ、押し付けがましさを感じさせない表現が新鮮だ。他の歌手が歌うとやりすぎて暑苦しくなる「時計のモノローグ」も、さりげなく歌われ、心の微妙なゆらめきが伝わってくる。何より、30代前半の女性を想定されて書かれたマルシャリンに相応しく、声に若々しい息吹を感じさせるのが良い。全ての点でゾフィーを上回る魅力を持つマルシャリン、というのはプロット上問題かもしれないが......
この素晴しい結果から見ても、指揮者カラヤンと監督ツインナーが、当初、デラ・カーザを公演と映画でのマルシャリンに起用しようとしたのは正しい判断だった。カラヤンは、この公演に先立つ1959年の夏、デラ・カーザに翌年の「バラの騎士」の出演を依頼している(ただ、この時点から、なぜかカラヤンは、シュヴァルツコップをセカンドとしたダブルキャストにこだわっていた)。そして、公演の4カ月前の1960年の3月に、音楽祭のプレジデントであったBaron Puthonが、デラ・カーザ夫妻に「バラの騎士」映画製作の話をした。デラ・カーザが喜んだのは当然である。特に、監督のツインナーは、ことのほかデラ・カーザ起用に熱心であったようだ。彼らは1960年の4月の段階でデラ・カーザに映画主演のオファーを出し、デラ・カーザも受諾した。6月には、ツインナーは、デラ・カーザ夫妻に「マルシャリンとザルツブルグでの映画を大変楽しみにしている」というカードを送っている((Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", p249-251)。デラ・カーザが心配することは何も無かった。あとは公演をこなし、カメラの前に立つだけである。
寝耳に水の降板劇と6年前の伏線
流れが突然変わったのは、7月、ザルツブルグ音楽祭が始まった後である。突然、彼女は映画の主役から外されたのだ。しかも、その決定は、デラ・カーザ本人にさえ知らされなかったらしい。メゾ・ソプラノのクリスタ・ルードヴィヒの自伝に以下の記述がある。
「リーザ・デラ・カーザは、ザルツブルグで不愉快な驚きを経験させられた。彼女は、新しい祝祭大劇場で、1960年の7月、カラヤンの指揮で素晴らしいマルシャリンを歌った。私がきいたところでは、その公演が映画化されるとのことだったが、(実際の)映画では、シュヴァルツコップがマルシャリンだった。音楽祭の最中、私はリーザに道でばったり会ったのだが、彼女はその映画の話をし始め、わたしにその映画に出演することをどんなに楽しみにしているか、ということを語ったのだ。私はひどく無邪気に、「あなた、シュヴァルツコップが映画でマルシャリンを歌うことになっているのを知らないの?」と言ってしまった。リーザは、誰かが彼女を排除した、ということを全く知らなかったのだ。契約というのは破るためにあるのだ。ヴォータンが「指輪」で幾度もやったように............」(「In My Own Voice:Memoirs」p185-6)
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| ドンナ・エルヴィーラに扮した、イングリッド・バーグマン風のデラ・カーザとサイン。(筆者蔵) |
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いったい、何が起こったのだろうか?
Richard Fawks のOpera on Filmsによれば、ツインナーの1954年の映像作品、「ドン・ジョヴァンニ」に、「バラの騎士」降板事件の伏線があるという (p161)。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のこの映像作品のプロトタイプとなった本公演では、シュヴァルツコップがドンナ・エルヴィーラ役として、ザルツブルグの6公演に参加した。しかし、シュヴァルツコップ夫君のEMIプロデューサー、ウォルター・レッグの意向で、シュヴァルツコップは映像版への参加を取り止めてしまう。
その理由は、「ドン・ジョヴァンニ」の製作中に、ツインナー監督で「バラの騎士」映画制作の計画があることをレッグが知ったためである。レッグは、その映画に妻のシュヴァルツコップをマルシャリンとして登場させることを優先させたのだ。「ドン・ジョヴァンニ」をあきらめることで、最初の映画出演から派生する契約上の束縛から自由になることも狙っていたことだろう。シュヴァルツコップが役を降りてしまったため、急遽、デラ・カーザが映画「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィーラ役に起用された。既に製作は進んでいたこともあって、デラ・カーザの登場箇所のみは、後になって改めて撮り直され、シュヴァルツコップが登場する箇所と差し替えられた。つまり、シュヴァルツコップとレッグの間では、「バラの騎士」は数年越しの夢だったのだ。そして、この夢は何が何でも達成されなければならなかった。
シュヴァルツコップ、レッグ夫妻の水面下での動き
自伝ではぼかしているのだが、クリスタ・ルードヴィヒはデラ・カーザ降板の舞台裏を知っていた筈である。デラ・カーザの夫君、デベルジェヴィッチ(Dragan Debeljevic)の「Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken"」によれば、ルードヴィヒとデベルジェヴィッチは、ザルツブルグ祝祭劇場の前でばったり出会い、以下の会話を交わしているという(p251)。
ルードヴィヒ「私、エリーザベトには頭に来てるの」
デベルジェヴィッチ「どのエリーザベトのことで怒っているんだい?」
ルードヴィヒ「(驚いて)シュヴァルツコップのことよ」
デベルジェヴィッチ「なぜ?」
ルードヴィヒ「なぜ?映画のことに決まっているじゃないの。シュヴァルツコップが映画に出演するなんて、ひどい話だと思うわ。」
デベルジェヴィッチ「そんなはずはないさ。リーザはずっと前から出ることが決まっている。ツインナーとは、出演料の話がのこっているだけなんだよ」
ルードヴィヒ「シュヴァルツコップの契約のことで誰もあなた達に連絡していないの?」
驚いたデベルジェヴィッチは、リハーサル中の妻のデラ・カーザに電話をかけた。デラ・カーザは、当初、夫の話を信じなかったのだが、ついに監督のツインナーから一件をきかされるはめになる。デベルジェヴィッチによれば、ツインナーは「うなだれた姿」で、「ひどい話だ。私は運が悪い」と口走っていたという。ツインナー曰く、「シュヴァルツコップとその夫君(レッグ)がロンドンの映画会社と直接交渉し、最終契約を結んでしまった」というのである。そして、ツインナーは、「自分は知らなかったんだ」としつつも、「口約束しかしなかったのは君たちのミスだった」とデラ・カーザ側を責める言葉を吐く。デベルジェヴィッチは激昂し、激しくツインナーを罵る。デラ・カーザはカラヤンに直訴しようとするが、ツインナーは「もう変更はきかない」と言うのみだった。(Dragan Debeljevic, p251-2)
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| 映画は、ライヴァル、シュヴァルツコップのマルシャリン歌いとしての名声を不朽のものとした |
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確かに、デラ・カーザがカラヤンのもとへ行ったとしても、時間の無駄だったろう。シュヴァルツコップは既にカラヤンとも手を打ってしまっていたからだ。ロンドンの映画会社といい、カラヤンといい、彼女の動きは見事なまでに素早く、効果的で、そして容赦の無いものだった。
「 最初に問題が起きたのは、カラヤンがマルシャリン役にシュヴァルツコップではなく、リーザ・デラ・カーザを起用する、と決めたときであった。デラ・カーザはマルシャリンの役をそれほど好んでいなかったから、シュヴァルツコップには二重のショックだった-----彼女は、前年の12月にコヴェント・ガーデンでショルティの元でこの役を歌った時、イギリスのメディアから、「好意的に見ても賛否半ば」、という評価を受けていたのである。-------シュヴァルツコップはカラヤン指揮で『ドン・ジョヴァンニ』のドンナ・エルヴィラを、ベーム指揮で『コジ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージを歌う予定になっていたのにも関わらず、1960年のザルツブルグ音楽祭から完全に降りると脅した。そして、シュヴァルツコップは、カラヤン指揮、パウル・ツィンナー監督の映画、「バラの騎士」のマルシャリンとして出演する、という合意を確実に取り付けた。」
(Herbert Von Karajan: A Life in Music, p454 Richard Osbone)
普通であれば、帝王カラヤンを脅した段階でシュヴァルツコップのキャリアは暗転していたかもしれない。仮にシュヴァルツコップがザルツブルグ音楽祭から完全撤退したとしても、芸術面、人気面で音楽祭が損害を受けることはなかったろう。なにしろ、当時のデラ・カーザの高いレパートリー能力と人気は、シュヴァルツコップの穴を埋めるに十分すぎるものだったからだ。そして、もしそうなっていたら、1960年のザルツブルグ音楽祭の主役はデラ・カーザになっていた。そして、後世は、オペラ演奏史上、もっとも美しいマルシャリンのカラー映像を目にしていたに違いない。
音楽ビジネスの論理を優先したカラヤン
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| 一世を風靡した当たり役、美女アラベラに扮したデラ・カーザ。作曲者リヒャルト・シュトラウスは、脇役を演じる20代の彼女の舞台を見て、「彼女は将来、新たなアラベラになるだろう」と予言した。 |
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だが、実際にはそんな事は起きなかった。カラヤンがシュヴァルツコップの要求をそのまま受け入れ、シュヴァルツコップを映画の主役にしてしまったからである。カラヤンの翻意の理由は、シュヴァルツコップの実力というより、シュヴァルツコップの夫君、ウォルター・レッグの存在があったからに他ならない。レッグは敏腕プロデューサーとして、大会社EMIを実質的に統括しており、ある意味、カラヤン以上に大きな力を持っていた。また、カラヤンは、ナチ党員として演奏活動が禁じられていた戦後間もない時期、レッグが創設したフィルハーモニア管弦楽団との録音の場を提供してもらっていた。カラヤンにとって、シュヴァルツコップを切って、恩も力もあるレッグとの関係にヒビを入れることなど想像もできなかっただろう。そして、シュヴァルツコップは、当時、賛否半ばだったとは言え、独自のマルシャリンを歌い、演じることが出来たから、カラヤンの行為は、道義的にはともかく、芸術的にはそう理不尽な判断ではなかった。そのことは、シュヴァルツコップ主演の映画が成功したことからも明らかである。
無惨だったのは、持ち上げられた上に梯子を外され、しかも、部外者であったルードヴィヒから道端で一件を知らされたデラ・カーザ夫妻である。カラヤンを始めとする関係者は、誰も彼女に説明しようとしなかったのだ。大物達の政治的思惑が交錯する中、後ろ盾のない彼女は、ただ苦い涙を飲む他なかった。デベルジェヴィッチによれば、彼女は、降板が決定した後、数日間というもの、ひどくふさぎ込み、プレミエの大成功についても、「何の意味があるの?明日になれば皆忘れてしまうわ。でも映画は記録として残るのよ。」と言っていたという。そして、「自分は裏切られた。自分は失敗者」とさえ考え、「Ich will nie mehr nach Salzburg-----もうザルツブルグ音楽祭では歌わない」と語るまでになっていた(Dragan Debeljevic, p252)。実際、翌年以降の同プロダクションはシュヴァルツコップが歌ったし、シュトラウス・イヤーであった1964年にも、カラヤンからの音楽祭への出演オファーを断っている(Dragan Debeljevic, p253)。もちろん、彼女も栄光あるザルツブルグ音楽祭への出演を断りつづけることで、自身のキャリアを傷つけていることは分かっていたが、彼女は自分をもてあそんだ場所を許すことができなかった。間もなく、彼女のメジャーレーベルへの録音も途絶えてしまう。
苦い涙とともに
この不条理な降板事件は、デラ・カーザの心に、音楽業界への大きな不信をもたらした。彼女は、これ以降もシュヴァルツコップと共演しており、少なくとも表面上、二人のライヴァルの関係がささくれ立つようなことはなかったようだ。ただ、音楽ビジネスの象徴であるザルツブルグ音楽祭への思いは別である。「陳腐」「誇りも人間味もない」「不公正。嘘。詐欺」「私はザルツブルグ音楽祭なしでも生きていけるし、ザルツブルグは私なしでも生きていける」と、プライヴェートな場でではあるが、激しい言葉を使っていた(Dragan Debeljevic、p253)。そして、後年のデラ・カーザは、音楽ビジネス全体、オペラの世界に充満する陰謀、嫉妬、政治的な動き、スター歌手達の自己中心的な振る舞いに対する違和感を表明するようになっていく。彼女は1974年、突然、引退を表明した。娘の病気が理由である。とあるインタビューで、「とてつもなく深い悲しみの表情とともに」、かつて負った心の傷を伺わせるような言葉を残している。
歌手の運命の一番奇妙なところは、目的のために全てをなげうち、そして儚く全てが終わってしまうこと.............
私達の残した足跡なんて、今日の午後降った雪のようなものなのです。明日には消え、何も残らないの。
そうね、何人かは覚えていてくれるでしょう。でも、それも本当に短い間だけね。
(The Prima Donnas, Lanfranco Rasponi)
彼女は敗北したのか?
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| 1960年のザルツブルグでの「バラの騎士」の舞台から。デラ・カーザ(左)とセーナ・ユリナッチ(右) |
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幸運なことに、これらの言葉は、彼女に限ってはせいぜい半分程度しか当てはまらなかった。確かに、現在、デラ・カーザの名は、レッグと彼の息のかかったメディアによって過剰なまでに神格化されたシュヴァルツコップに比べ、ひどく過小な扱いを受けている。しかし、その反面、彼女が1960年代前半までに残したいくつかの録音は、オペラを少しでも聴き込んだ人々にとっての大切な宝物であり続けている。「アラベラ」4種(DG、デッカ、オルフェオ、テスタメント)、ミトロプーロスとの「エレクトラ」(オルフェオ)、ベームとの「四つの最後の歌」「コシ・ファン・トゥッテ」(デッカ)「ナクソス島のアリアドネ」(DG)、エーリヒ・クライバーとの「フィガロの結婚」(デッカ)、セルとの「魔笛」(オルフェオ)、フルトヴェングラーとの「ドン・ジョヴァンニ」「フィデリオ」、そして、何と言ってもカラヤンとの1960年の「バラの騎士」のライヴ録音(DG)..........。これだけ多くの名盤、綺羅星のような名演に関わって来た歌手の名が、「雪のように、明日には何も残らない」ことがありうるだろうか。
興味深いことがある。近年、シュヴァルツコップの歌唱アプローチが、若い世代の歌手や批評家達から、作為的、表情過多、マンネリズムと批判されることが増えてきているのである。巷で「完璧」とされてきた技巧についても、よく聴いてみれば、音程も正しいわけではないし、特に後年は、もっぱら声の美感の不足を隠すために使われていたようにも聴こえる。ウォルター・レッグによる宣伝とは無縁の若い世代の聴衆には、かつて「お行儀が良すぎる」と言われた、デラ・カーザのナチュラルで上品な歌い方の方がフレッシュに響くのではないだろうか。実際、ここ10年の間に彼女が参加した公演のライヴ録音が、オルフェオ、DG、テスタメント等を通じて日の目を見て来たが、どの盤も最高の評価を受けている。1960年にバイエルン国立歌劇場で収録された、「アラベラ」の全曲映像が正規ルートで発売される日もそう遠くはないだろう。
来年初頭、「ウィーンの名花」リーザ・デラ・カーザは89歳になる。彼女は、ささやかだが、着実に進行しているリバイバルの流れをどのように見ているのだろうか。できることなら、話をきいてみたい気がする。
10/23/2007
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References
Memoirs, by Hans Hotter
Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", Dragan Debeljevic
In My Own Voice: Memoirs, by Christa Ludwig
Herbert Von Karajan: A Life in Music, by Richard Osbone
The Prima Donnas, by Lanfranco Rasponi
Opera on Films, by Richard Fawks
"Lisa Della Casa" (International Opera Collector, p26-31), by Roger Nichols
追記)デラ・カーザの90歳記念特集のテレビ番組が制作された。その中で、白黒ではあるが、60年ザルツブルグ音楽祭の「薔薇の騎士」の舞台を記録した映像が流されている。
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