ニレジハージ芸術の本質

Photo (C) Yoshimasa Hatano

青年期も晩年期も、ニレジハージの方法論は、構造よりも情念に基づいたものだった。この点で、彼のスタイルは19世紀的なのである。ニレジハージにとって、楽譜は作曲家とコミュニケートする以上に、自己の内面を剥き出しにするための手段であったように思われる。ゆえに、彼の考える範囲でそれができれば、楽譜に書かれた音符を正確に再現するなどということは、どちらでも良かったのである。実際、青年時代から晩年にいたるまで一貫して、彼は音符を改変し、拍節を無視し、指定のテンポも守らなかった。これを傲慢と取ることも可能だろう。しかし、芸術とはもともと傲慢なものだ。彼は、楽譜づらを正確に弾いていれば安心するような平凡な表現者ではなかったのだ。

絵画で言えば、近代ピアノ奏法が写実主義であるとすれば、ニレジハージは表現主義的世界の住人である。時に破綻してしまうようなデフォルメは、作品と相対した時の内面の爆発の結果として生まれる(彼は幾度も、自身の演奏の根源には、性的なものがあると言っている)(1)。宗教的な崇拝と熱狂を一部の聴衆から勝ち取った反面、時に、あまりに人間の生の情念を剥き出しにするため、臓腑をいきなり見せられたときのように拒否反応を覚える聴衆も多かったのである。この、鍵盤に血痕が残るほどに自己を開陳した態度こそ、彼とほかのピアニストの間を決定的に区別するものであった。

本来の芸術行為というのは、対象を足がかりにして、自らの内的世界を解放することに他ならない。一般には楽譜に忠実とされる音楽家や、写実主義の画家でさえ、程度の差はあれ、この作業を無意識に実行しているのである。しかし、真摯な芸術家であればあるほど、これは難しく、恐ろしい作業になってくる。芸術家の内面そのものが、芸術作品の性質とキャパシティを決めてしまうということを、否応無く認識せざるをえないからだ。それだけでなく、自身の情念や無意識までが万人のもとにさらされ、評価や批判の対象となることも覚悟しなければいけない。卓越した技術は、その恐怖を多少なりとも和らげ、内面の表出をより容易にし、自身の解釈に説得力を与える手段である--------それが本来の演奏技術を磨く、ということの意義だ。しかし、現代の音楽家達の中には音符を正確に再現する、という、難しくもあるが、結局のところは”瑣末事”を免罪符にし、この、「自己をむきだしにする」、という作業をやらずに済ましているか、あるいはする能力がないと思われるのが少なくない。

しかし、表現主義への寛大さを失い、原典至上主義に染まったのは誰よりも聴衆であり、レコード・プロデューサーであり、批評家達であり、教育者達である。装飾音一つに目くじらをたて、演奏家の人格を糾弾する、「音楽原理主義者」の素人までいる。このような土壌では、たとえ表現力に溢れている若い音楽家達がいたとしても、彼らが伸びる方向は限られてくる。クリーンで、リズミカルで、ピリオド楽器を使い、楽譜に忠実。そして、表現をしない、安全で保守的な演奏をする人間のみが奨励される。そして、そういった義務を最高レベルで達成したものがコンクールと呼ばれる、スポーツ大会で金メダルをとる。この流れをつくったのは他でもない、我々聴き手なのである。

このような時代の流れの中、ニレジハージは時代から背を向け、また背を向けられながらも、晩年に至るまで、真摯な芸術家であり続けたのである。借り物の解釈、楽譜をそのままコピーしたような解釈でリサイタルをこなすことなど、彼には到底不可能だった。彼が隠遁した理由には、20世紀になってひどくビジネス化してしまった楽界への違和感、彼自身のプライドの高さ、神童故の他者からの批判からの脆弱さ、世渡りの下手さなど、いろいろな理由があっただろう。そして、ニレジハージ自身は、「自分自身の自由を守りたかった」とも語っている。それらは大なり小なり、本当のことだろう。しかし、無視できない理由として、日々の演奏=自己の開放という行為に全身全霊で打ち込むあまり、その精神的、肉体的な負担に耐えられなくなっていたからではないだろうか。1930年代から、多量のアルコールなしには、(プライヴェートな状況でさえ)ピアノの前に座ることも出来なくなっていたという証言がこれを裏付ける。文字通り、彼は自分の骨身を削りながらピアノを弾いていたのだ。