シェーンベルグの証言






シェーンベルグ 1941年頃のニレジハージ







以下は、1935年、アーノルド・シェーンベルグが指揮者のオットー・クレンペラーに宛てて書いた手紙の一部である(筆者訳)。この時期、ニレジハージは 既にスラム生活に入っており、数年に一度の頻度で小さなホールや教会などでリサイタルを開いていた。そこに亡命中のシェーンベルグが遭遇した、というわけ である。魂を深く揺さぶられたシェーンベルグは演奏を終えたニレジハージに駆け寄り、「あなたは私が出会った中でも最大級の天才性に満ちてい る.....」と声をかけた。翌日も興奮はさめやらず、以下の長文の手紙(筆者訳)を友人の指揮者オットー・クレンペラーに書き送った。後年偉大な巨匠と なるクレンペラーは当時ロス・フィルの常任指揮者であり、シェーンベルグとも交流があった。ニレジハージの特質についてシェーンベルグが指摘した多くの点 は、ニレジハージ晩年の録音からも聴くことができる。

「今日、別のことで書いてみたい。これは、他のことを差し置いてもかまわないほど重要なことだと思っている。

昨日、私はHoffmann博士の家で一人のピアニストの演奏を聴いた。それは、とてつもないものだった。最初、私は気が進まなかったんだ。というのは、 Hoffmann博士とMaurice Zamの賛辞がうさん臭いものに思われたからね。しかし、今となっては、私はあんな凄いピアニストを今まで一度も耳にしたことがなかったと断言できる。ま ず間違いなく君も彼の名前を聴いたことがあるよ。アーヴィン・ニレジハージだ。あの、5歳の神童としてヨーロッパを演奏旅行し、青年期に(彼今33歳だ) 戦前、ドイツで演奏し、それからアメリカでコンサートを開いて、大変な成功を収めたピアニストだ。Hunecker(当時、アメリカ最高の評論家の1人) いわく、「リストの生まれ変わり」。それはどうやら正しかったらしい。リストが、ニレジハージほど素晴らしいと仮定しての話だがね。それから、私が勘違い していなければだが、彼はJudson(注)と喧嘩別れしたんじゃなかったかと思う。以降、彼は全く活動しなくなってしまった。彼は今や、衣食にも事欠く ようになってしまった。






1924 年に撮影されたシェーンベルグ(左端)とクレンペラー(左から二人目)。中央はシェルヒエンで、タバコを加えているのは、シェーンベルグの高弟、作曲家の アントン・ウェーベルン 。ちなみに、ウェーベルンは、第二次大戦後、写真のようにタバコに火を付けたところを米軍のGIに誤射され、死亡している




とにかく、私は彼についてもう少し書いてみたい。まず、彼の演奏は私や君のそれとは全く違う。たぶん、君も彼を聴けば、私と同じく全ての 原則というものを脇においやりたくなるだろう。そんなものは、彼にとってはどちらでもいいものなのだ。彼が演奏するのは古い言葉で言えば、「純粋表現」 だ。しかし、あんなに力に満ちた表現はいままで聴いたことがない。君は彼のテンポにはほとんど同意できないかもしれないだろうね。君は、おそらく彼があま りにコントラストを強調しすぎて、全体の形式を見失っていると思うかもしれない。しかし、驚いてしまうんだが、彼は彼の方法で形式、感覚、バランスを獲得 するんだ。

彼がピアノから引き出す響きは空前絶後のものだよ。少なくとも私はあんな響きは聴いたことがない。彼がどうやってあの信じがたく、新しい音色を引き出す か、彼自身もわかっていないように思える。しかし彼は知性的な人物で、単に無気力な「夢見る人」じゃない。そして、うるさくなることのない充実した響き! あんなのはきいたことがない。私もそうだったが君も完全に圧倒されるだろう。そして、全体としても信じられないほど独創的で、かつ確信に満ちているんだ。 さらに彼は33歳に過ぎず、これからもっとステージにあがるだろうし、偉大な未来が彼を待ち受けているだろう。だからこそ彼がコンサート活動にもう一度戻 る機会を与えられることが重要だと思う。この会合をアレンジしてくれたZamとCrownも熱烈に、彼を「リストの生まれ変わり」と呼んでいる。もし、全 てが私の意のままになるのなら、私は彼とすぐ契約するだろう。CrownとZahmは、私のコンサートで彼が演奏できないかともちかけてきた。でもそれは 無理なんだ。私は今回、私の作品だけを演奏するように頼まれ続けている。それは他人を関わらせないでくれ、という意味だととっている。それに私にはリハー サルをする時間がいつも足りないし、経験も不足している。それに気も重い.........たった4回のリハーサルしかないんだから、今回は私は自分がよ く指揮している曲だけをやってみたい。でも彼が君のコンサートで弾く、とういうのは無理かな?彼はチャイコフスキーやブラームスを弾 きそうだぞ。

君にうまく説明することができたのなら嬉しいことだ。私が信ずるに、もし君が彼とのスタイルの違いに慣れてくれれば、それからもし、君が彼の巨大な潜在能 力を想像してくれれば、それからもし君が彼の比類なきテクニックを知ってくれれば(まだ一度もこれに言及していなかったが)、君は正しく行動するだろう。 彼のテクニックは驚愕すべきものだよ。人は曲が難しいなんて感じないし、第一、テクニックなんてものさえ頭に浮かばない。むしろ、それは彼の自己認識過程 において全ての困難を乗り越えることを可能にする、彼の純粋な意思力と言えるものだ。-----どうだね、まるで詩人みたいだろう。」





1941年のコンサートプログラム。20世紀の音楽を嫌っていたニレジハージだが、シェーンベルグのピアノ作品 Op11のみは取り上げている。筆者蔵。





厳しい審美眼を持ち、当代最高の音楽家達のサークルの中心にいたシェーンベルグが「あんなのは聴いたことがない」と4回も繰り返しているのだから、いかに 当時のニレジハージの力量が図抜けていたかがわかろうというものである。ニレジハージがシェーンベルグの運動をどう思ったかは定かではないが、歴史的事実 として、彼がクレンペラーの前で演奏したのは確かである。しかし慧眼なシェーンベルグが前もって危惧したように、クレンペラーはニレジハージのスタイルを 気に入ることはなかった。また、ニレジハージが楽譜を改変して演奏したことも、厳格な上にも厳格なスタイルをとることで知られるクレンペラーの気に触っ た。つまりは水と油だったのである。この出来事がニレジハージのキャリアに影響を及ぼすことはほとんどなかったし、ニレジハージにとっては、数ある苦い想 い出の一つでしかなかったかもしれない。しかし、パブロ・ピカソと並んで、20世紀の芸術シーンを根底から揺さぶった男から得た尊敬と讃嘆は、実はニレジ ハージの人生の中で最大の勲章の一つと言えるのではないだろうか。

シェーンベルグとニレジハージの交流は作曲家の死の直前まで続いた。それにしても究極の前衛主義者だったシェーンベルグが、究極の浪漫派であるニレジハージの音楽と波長があったというのも面白い。

注1) シェーンベルグの記憶違い。Athur Judsonはニレジハージをマネジメントしていなかった。ちなみに、Arthur Judsonは全米中に絶大な権力を持っていたマネージャーでプロモーター。現在、小沢征爾、ハイティンク、パールマンといった世界中のアーティストを握 るColumbia Artists Management Inc.(CAMI)の前身、Columbia Concert Corporationの初代プレジデントでもある。ニレジハージの没落ぶりから、彼がJudsonのブラックリストに載ったとシェーンベルグが考えたの も無理はないし、実際、彼の名前はプロモーター間のブラックリストには載っていただろう。

2021年8月12日付記

Peter Heyworthのクレンペラーの伝記 Otto Klemperer: his life and timesにはこの事件は登場しない。だが、1935-36年当時にクレンペラーが置かれた状況は伺える。

クレンペラーが音楽監督を務めていたロス・フィルのパトロンのアイリッシュ夫人は音楽について無知な富豪の女性であった。ある時、彼女はクレンペラーに チャイコフスキーの「悲愴」の第4楽章を全カットして「爽快に」終わらせるように、と勧めたという。一方、ニレジハージはショパン第2ソナタの最終楽章と第3ソナタの最終楽章を入れ替えて弾き、クレンペラーの怒りを買っている。
クレンペラーの中でニレジハージと アイリッシュ夫人の姿が重なったとしても不思議でない。また、当時のクレンペラーは、諸事情でハリウッドやエンターテインメント系の人々と芸術的に満足で きない仕事をやらされる状況にいた。一流とは言えない音楽家達と、一時ハリウッドの下請けで生計をたてていたニレジハージの姿が重なった可能性もある。さらにク レンペラーはアーサー・ジャドソンによってプロモートされており、様々な局面でジャドソンとトラブルを抱えていた(シェーンベルグがジャドソンの名を出し たのはクレンペラーの同情を惹くためだった可能性がある)。トラブルの一つは、ジャドソンによって選ばれた独奏者達の大半との共演を拒否したことで、その理由は「音楽性 の違い」だった(「イトゥルビは指揮者にとってはやり過ぎだ。マイラ・ヘスの事は知らないが、私の音楽的イマジネーションとは正反対だと耳にしている.....彼らの音楽的性格は私自身の音楽的性格とは異なるようだ」)。言うまでもなく、クレンペラーとニレジハージの音楽性の違いは大きく、ほとんど別の惑星の住人であった。

ロスの状況はクレンペラーにとってハッピーなものではなく、彼はNYPやフィラデルフィア管の音楽監督を望んで積極的に動いていたのだが、ジャドソ ンとのトラブルもあって全く順調ではなかった。例えばNYPに関しては1935年に集中的に指揮をし、時にはセンセーショナルな成功をおさめていたが、全 体としては聴衆や批評家を納得させることはできず、監督への望みは消えつつあった。フィラデルフィア管に関してはNYPよりもうまくいっていったが、ちょ うど彼がニレジハージを聴いた月(おそらく直前)にストコフスキーが辞任し、オーマンディの新監督就任が発表された。ニレジハージがクレンペラーので弾い たのはこういう難しい時期だった。


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