英国カルチャーの終焉ーソコロフ事件をめぐって
現在、ヨーロッパ文化の中心地であるはずの英国で排他主義が台頭、それが芸術家達の入国を困難にするほどの理不尽なレベルにまで達している。このきっかけは、ポーランドなどのEUからの移民が、英国人達の職場を奪っているという、芸術とは無関係の状況がある。同時多発テロの影響もあり、2008年頃から、英国移民局は非常に厳しい移民規制を導入。そのターゲットとなったのは、移民問題の原因となったEU加盟の国民ではなく、非EU国籍を持つ外国人達だった。EUメンバーの英国はEU加盟の国民を排除できない、というルールのため、非EU国籍の人間がターゲットになった。つまり、事あるごとに海外に向けて人権を説いてきた英国が、その口の裏で国籍差別を行い始めたのである。
ソコロフ事件
ロシア国籍のピアニスト、グレゴリー・ソコロフを当代最高のピアニストの一人、とみなすヨーロッパ人は少なくない。彼はヨーロッパ大陸を拠点にしており、アメリカや日本にはまず来演しない。ただ、ロンドンだけは定期的に来演していて、2008の5月にも来て演奏しているはずだった。ところが、2008年前後から英国ビザのルールが変更になり、訪問を希望する非EU国民は、在留地での英国領事館における指紋取得が義務づけられるようになった。ソコロフはこれを拒否、そのために2008年の春に予定されていた、バービカンセンターを始めとする英国ツアーの売り切れ公演がキャンセルになってしまったのである。ソコロフのマネージャー曰く、「英国政府はソコロフ氏が国家安全に危害を及ぼすものではないことを知っているはずだ」。もちろん。しかし、ルールガチガチなのが英国式官僚主義だ。
http://www.theherald.co.uk/news/news/display.var.2192109.0.Visa_row_as_pianist_forced_to_cancel_UK_show.php
このゴタゴタはメディアにも大きくとりあげられた。その後、2009年の4月に、ソコロフのロンドン公演が再度予定されたのだが、問題は解決に至らず、やはり中止になってしまった。主催者によれば、IAMAを始めとする多くの団体の協力を得ながら英国移民局と交渉を重ねたようなのだが、事態を動かすには至らなかったようだ。「ソコロフ氏は英国で将来演奏できなくなったことについて、非常に悲しく思っており、聴衆を失望させたことについても遺憾に思っている」と主催者からの手紙にある。
芸術家さえも排除しはじめた英国
このようなことがおきた背景には、英国移民局が英国に招待された非EU国籍のアーティストを、あたかも出稼ぎ労働者のようにみなしている、ということがある。ソコロフの他にも多くのアーティストの活動が困難になりはじめている。
http://www.rsaartsandecology.org.uk/projects/news/march-2009/mar-03--artists-protest-visa-clampdowns
この記事によれば、中国のアーティスト、Huang Xuは、ロンドンの画廊の招待のために渡英する予定だったが、入国を拒否されている。また、ロシアのアーティストのDimitry Vilenskyも「官僚的な理由」で入国拒否された、とある。
http://www.guardian.co.uk/uk/2009/feb/22/immigration-arts-gormley
上は、ソコロフ事件に関して、当局に対して批判的に書かれたガーディアンの記事だ。これによれば、英国に来演する非EU国籍のアーティストは、指紋情報を含むIDカードの提示/携帯だけでなく、招聘元が「財政面での責任を持つ」という証明を行い、英国内での全ての活動の仔細を提出しなければならないという。さらに、招聘元は400ポンドから1000ポンドのスポンサー料を、国へ支払わねばならない。日本円で6-15万円である。しかも、個々のアーティストは銀行口座に800ポンド(約12万円)の貯金があることを渡航の3月前に証明しなければならないという。
これに加え、個々のアーティストには、自国の領事館での指紋登録等の手続きが義務づけられている。日本の場合、領事館があるのは東京と大阪のみ。沖縄や北海道在住のアーティストは高い航空運賃を払って、指紋登録等の手続きに出向かなければいけない。これは代理申請が認められていないので、例えば札幌交響楽団の場合、100名がいちいち東京にまで出向かなければいけないのである。上の記事にあるように、12名から構成される西アフリカのジャズバンドは、渡英手続きのためにギニアからシェラレオネまで旅行しなければならず、3500ポンド(50万円)の支出を余儀なくされている。ソコロフが昨年の公演を拒否したのは、この手続きを嫌ったためと報道されている。
一連の経緯を見ると、英国の官僚の目的は、「国内の外国人を減らす」ことに集約されていることに気がつく。目に見える成果、数字をあげるために、敷居を高くしているのである。その手法は多岐に渡り、申請コストの上昇、煩瑣になった手続きや書類。英国在住者としての個人的経験から言って、彼らが最近行っているのは官をあげてのハラスメントに近いものがある。
例外はある。上の記事の一番最後、「highly skilled」に入る外国人は、スポンサー保証が必要ない、と言う意のことを、UK Border Agencyのスポークスマンが言っている。しかし、巷で現役世界最高と評されるピアニストが「highly skilled」と見なされないのだから、この例外規定はアーティストには無関係とみなすべきだろう。
衰退に向かいかねない英国のカルチャー
移民規制の厳格化は、非EU国民に対して差別的であるだけでなく、英国のカルチャー自体を衰退させる。それを心配しているのは、誰よりも英国の芸術愛好家、アーティスト達だ(大多数の人間はまだ気づいていないのだが)。英国の指導的な立場にある52人のアーティスト達は、連名で以下の声明をオブサーヴァー紙に発表している。
「我々は、これらの規定は、国籍と経済状況をもとに海外の仲間達を差別するものと考える。そして発展途上国と低収入の国からやってくるアーティスト達には、とりわけ大きな打撃となるだろう。このような規定は、世界中のアーティストや研究者達による、英国の文化的、知的、そして市民の生活への貢献を破壊することになろう。」
http://www.rsaartsandecology.org.uk/projects/news/march-2009/mar-03--artists-protest-visa-clampdowns
TIMESのJoan Bakewellも、コラムで移民政策を緩やかにせよ、と提言している。
「もっと心配なのは、音楽家達が英国に背をむけ始めた兆候が見られることだ。NCAが受けた情報によると、マリの世界的な音楽家は、プロモーターに「わざわざ危険をおかし、コストをかけて西アフリカを横断し、領事館が英国入国用のビザを調達する間の10日間を待つ価値はない」と通達したという。」
http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/columnists/joan_bakewell/article5853810.ece
グレゴリー・ソコロフも、今回の出来事について「ソヴィエトによる抑圧を思い起こさせる」とし、ビザ規定が変更されるまで英国では二度と演奏しない、と言ったという。ソコロフとロンドンは長らく蜜月の間柄だっただけに、この言葉は重い。
http://www.telegraph.co.uk/culture/culturecritics/ismenebrown/4939085/Grigory-Sokolovs-visa-woes.html
ロンドンが世界でもっとも魅力的な都市の一つと言われるようになったのは、ヌレエフ、フォンティーン、リヒテルといった才能を国籍に無関係に受け入れ、賞賛してきたからだ。優れた芸術の元には、優れた聴衆が育つ。ロンドンの聴衆の質は、世界でも屈指だと思う。その豊かな土壌を「国家安全」の名のもとにつぶす移民局の官僚達は、もはや亡国の徒と言われても仕方がないのではないか。
英国はどこへ行くのか
Childrens of Men(邦題トゥモロー・ワールド)という、クライヴ・オーウェン主演の映画があった。移民を規制し、強制収容所に封じ込め、虐殺を行う英国の未来を描いていた。その中に、人々が「British Citizen!」とパスポートを見せて銃撃を免れようとするシーンが出てきた。10年前なら馬鹿馬鹿しいと笑っただろうが、英国官僚達の狂気はこれを現実のものとしかねない。