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ディヌ・リパッティ:生涯最後の「主よ、人の望みの喜びよ」

Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)



ディヌ・リパッティは1950年9月16日、生涯最後の演奏会となった、いわゆる「ブザンソ ン告別演奏会」において、以下のプログラムを組んだ。演奏会はエンジニアによって録音されていた。上の写真はブザンソンでの演奏会のリハーサル時のものだ が、ピアノの下と客席側にそれぞれ一本ずつマイクが設置されているのが見える。

バッハ:パルティータ第1番

モーツァルト:ソナタK310

シューベルト:即興曲 G-flat major とE-flat major (Op 90)

ショパン:ワルツ集

周知のように、病のために衰弱していたリパッティにはショパンのワルツ集を全曲弾き通す体力が無くなっており、彼が弾いたのは14曲中13曲のみであった。最 後のワルツの代わりに、リパッティはアンコールとしてバッハのコラール「主よ、人の望みの喜びよ」を弾いたとされている。だが、発売され たアルバムに収録されているのはワルツ集までで、その後何度も復刻されてきたが現在に至るまでブザンソン告別演奏会由来のバッハのコラールの録音が含まれたことはない。録音が見つからないのだ。一説によるとエンジニアがアンコールが あると思っておらず、録音機を止めてしまったとも言われている。リパッティが死んだのはこの演奏会の三ヶ月後であった。

2017年、友人のマーク・エインリーがとある録音の存在を私に伝えてきた。エインリーはリパッティ研究の第一人者として、過去、いくつかの重要な録音を 発見し、ドイツ批評家協会賞も受賞している(http://www.dinulipatti.com/)。エインリー曰く、リパッティの死後、ジョルジュ・エネスコが主催した記念コンサートで、「リパッティが最後に弾い たバッハ」とのアナウンスの後に「主よ、人の望みの喜びよ」の録音が会場に流されたというのである。そして、その時の会場の音を拾った録音を入手した、とい うのだ。

問題は、その「最後に弾いたバッハ」の意味である。ブザンソン告別演奏会でリパッティが最後に弾いたバッハの1947年ロンドンでのスタジオ録音、という意味なのか、あるいはまさにブザンソン告別演奏会での録音、と いう意味なのか。エインリーはとある著名なヒストリカル録音の専門家に調査を依頼した。解析結果は「途中まではスタジオ録音と一致。だが、その後一致しな くなる」というものだったという。私にさらに精密な解析を行うよう、依頼してきたのだった。

録音全体の音のタ イミングの相同性を以下のように調べた。まず、スタジオ録音とエネスコ記念コンサートの会場録音からCapstanでワウ・フラッターを除去し、回転ムラによる差がでないようにした。さらにピッチを小数点以下第一位まで細かく調整し、二つの録音の最初と最後の音のタイミ ングを合わせた。二つの音源の一致を視覚的に見たのが上の波形である(曲の一部)。上がEMIのスタジオ録音、下がエネスコのコンサートの録音だ。後者の会場ノイズによるパターンの差異はあるもののタイミングが一致している。

さらに上の波形を用い、どれだけ二つの録音の間の音のタイミングが一致するかを楽曲の37音で調べ、エネスコ記念コンサートの録音を縦軸、スタジオ録音を横軸に取り、プロットを描いた。

結果は若干数学的な話 になるが、二つの録音の相関係数は0.999999996、つまり非常に強い正の相関を示した。これが間違っている確率は3.46x10の-151乗。二 つの録音は同一、と 言ってもどこからも文句は出ない。 「途中まで一致するが、その後一致しない」との初期解析の結果は、単純にワウ・フラッターによるエラーであったと考えられる。

残念な話だが、リパッティの生涯最後のバッハは未だ発見されないままだ。


3.10. 2019

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